2009年07月01日

現在では20世紀コミンテルン以来の特殊な政党

「共産党」という言葉は現在では20世紀コミンテルン以来の特殊な政党のことを指すが、19世紀のマルクスの生きた時代の文脈においては、様々な思想的傾向の人々で構成される労働者党は存在したが、共産主義者だけで構成されるいわゆる“共産党”という政党は存在しなかった。1848年2月までロンドンに存在した“共産主義者同盟”は近代的な議会政党でもなく、当然20世紀的な国民政党でもなかった。当時のそれは議会ではなく直接行動によって社会革命を企図する秘密結社であった。このため、現在ではこの文書を『共産主義者宣言』『共産主義者同盟宣言』『共産主義派宣言』と訳すべきとする見解がある(石塚正英、篠原敏昭、大藪龍介、金塚貞文他)。
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本書は発行された直後に革命が起きたために、長らく入手が困難な状況におかれ、1860年代のドイツでは「『共産党宣言』はドイツ国内に一説によると、たった二冊しか残っておらず、その一部は、マルクスの友人であり後に袂を分かったフェルディナント・ラッサールの本箱の中にあったという」(安世舟『ドイツ社会民主党史序説』)。また、ヨーロッパでは「マニフェスト」と言う語で、本書を指すこともある。

日本に於ける最初の翻訳は、1904年11月13日発行の週刊『平民新聞』第53号に幸徳秋水と堺利彦が共訳して掲載したものである(第3章は略された)。ただしこれは、ドイツ語からの翻訳ではなく、サミュエル・ムーアによる英語訳からの重訳であった。この号はただちに官憲の発売禁止措置をうけ、のちに堺が1906年に全文を発表。このときは発禁処分を受けなかったが、大逆事件以後、太平洋戦争が終わるまでの数十年間、非合法のままの扱いをうけた本となった。戦前、マルクスとエンゲルスの本は『資本論』をはじめ数多く読めたが(著作集“Werke”の邦訳も出ている)、綱領文書であるこの『共産党宣言』だけは発禁を解かれなかった。


2009年06月13日

線形帰還シフトレジスタ

擬似乱数の生成方式として、線形帰還シフトレジスタ (LFSR; Linear Feedback Shift Register) を用いた方法が知られている。LFSRはデジタル回路を用いて容易に実装することができる。特性多項式を適切に選択することによって、等頻度性、無相関性及び周期が保障される。しかし、LFSRは数学的に容易に解析可能であるため、そのまま暗号に使用することは推奨されない。

カオス乱数 [編集]
非線形微分方程式の解はカオスと呼ばれ、初期値敏感性等の性質を持つ。 漸化式の形で記述することによりカオス的な関数を得ることができるとされている。

よく使われる関数にロジスティック関数やテント写像がある。 厳密には有理式でなければランダムな関数とはならないため、コンピュータで実装した場合は必ずしも乱数性の優れた擬似乱数とはならない。 カオス乱数の出力をそのままストリーム暗号の鍵ストリームとして用いる手法は安全とは言えない。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

暗号理論では擬似乱数に厳密な定義が与えられている。Σ = {0,1}とする。自然数 k に対し、Σk 上の一様分布を Uk と表す。確率変数の族 {Xk}k∈N が、一様分布の族 {Uk}k∈N と計算量的識別不能な時、族 {Xk}k∈N は(暗号論的)擬似乱数であるという。

前述の混合合同法や平方採中法で作った乱数列は、簡単に真の乱数と識別可能なので暗号論的な意味では擬似乱数ではない。

次に擬似乱数生成器の厳密な定義をする。l(k) を l(k) > k を満たす多項式とする。G を多項式時間アルゴリズムで、G に k ビットのビット列を入力をすると l(k) ビットの出力を返すものとする。すると G(Uk) は Σl(k) 上の確率分布である。確率分布の族 {G(Uk)}k∈N が擬似乱数である時、多項式時間アルゴリズム G を擬似乱数生成機という。

一方向性関数が存在すれば擬似乱数生成機が存在する事が知られている。

2009年06月08日

サンガの国家制度化

モンクットに続き王になったチュラーロンコーン(ラーマ5世、1853年 - 1910年)はチャクリー改革によって中央集権を確立したが、国の拡大に伴いタイ全土のサンガを管理する必要が出てきた。チュラーロンコーンはサンガ法(1902年)によってそれまで単なる僧の集まりであったサンガを明確に法人化し、すべての僧に所属する寺院へ僧籍を入れさせた。この僧籍への強制入籍は最初は首都近辺で始められ、徐々に遠隔地に浸透した。このサンガ法の実効には20年を要した。1941年には、第一次ピブーンソンクラーン内閣によって仏暦2484年サンガ法に改訂され、さらに、1962年には、サリット内閣によって仏歴2505年サンガ法に改訂された。
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改訂の入った仏暦2484年サンガ法では1932年の立憲革命の影響を受けサンカラート(大僧正)の下に立法、司法、行政を置き民主主義的なものであったが、非常に効率が悪かった。とくに1958年のサンカラートの死去の時、タンマユットニカーイ出身の僧とマハーニカーイ出身の僧、どちらの僧が新たなサンカラートになるかで紛争が起こった。話し合いは2年にも及び、結局は当時のワット・ベンジャマボーピット(マハーニカーイ)の住職が新たなサンカラートになることで幕を閉じた。

しかし、国の「発展」のために民主主義よりも「効率」を最優先していた、当時の首相、サリット・タナラットにとってはこのサンガの紛争は非常に「非効率」であった。サリットはこのため1962年、仏暦2505年サンガ法を施行。それまでの民主主義的なサンガ法を否定し、より効率的に機能するように改変した。

2009年04月24日

大喜利

大喜利(おおぎり、おおきり)

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興行において、その日の最後に出る演目。キリは終りの意で、縁起をかついで佳字をあてる。
歌舞伎では特に所作事を出す場合が多い。
寄席で、トリを落語・講談が取らない場合、しばしばその代りに行われた演芸。複数人でおこなわれ、お題をうけて小咄やなぞ掛けなどを行うことが多い。司会者を伴うこともある。本項で詳述する。

歴史
元来は、寄席において観客へのサービスとして行われていたもので、最後の演目として複数の出演者が再び登場し、観客から題目をもらって互いに芸を競い合う余興であった。

これはコンサートなどにおけるアンコールに相当し、現在の演芸の舞台でもよく耳にする「お客様方のご機嫌を伺いたいと思います」というフレーズは、このサービスという観念に由来するものと思われる。

大喜利という名は能・浄瑠璃・歌舞伎といった古典芸能の舞台で、最後の演目を意味する言葉として使われる「大切り」に由来する(「切り」は「ピンからキリまで」の「キリ」で、最後の意)。「喜利」は客も喜び、演者も利を得るという意味の当て字である。

現在「大喜利」といえば、テレビ番組『笑点』(日本テレビ)のコーナーの「大喜利」がイメージされるだろう。またここから派生して、多くのバラエティ番組やお笑いイベントなどでは「大喜利形式」と称し、お笑い芸人やタレント、落語家達が用意された様々なお題に対して、面白い答えを出し合い、互いのお笑いセンスを競っている。良い答えを出した人に座布団が与えられるシステムやフリップや小道具等の使用なども「笑点」によって一般的になった形式である。

大喜利でよく行われるもの
あいうえお作文
なぞかけ
川柳・短歌・都々逸など
イラスト・歌
あったら嫌なもの・あったらいいものなどを使ったもの
ベンベン
「○○のようで○○でない、△△のようで△△でない、それは何かと尋ねれば、□□、□□」のように、AでもなくBでもないCを問うもの。合いの手として、「ベンベン」(義太夫の三味線の音色に由来)と入れることから、上方ではこの名がある。

2009年04月07日

寺内タケシとブルージーンズ

寺内タケシとブルージーンズはエレキギターをメインにした日本のコンボ・バンドで、その源流は1962年に結成されたロカビリーバンド、エレキバンド(第1期)、1969年に結成されたエレキ・コンボ・バンド(第2期以降)である。略称は「ブルージーンズ」、「TBJ」、いずれもリーダー、バンドマスターは「エレキの神様」寺内タケシである。

メンバー [編集]
以下は2007年11月28日現在のメンバーである。

寺内タケシ(バンドマスター、リードギター)
中村真也(サイドギター、セカンドギター)
異名は「寺内タケシになりたかった男」「房総の寺内タケシ」、寺内ファンの父の影響で5歳でギターを始めると10歳で寺内ナンバー全てを完奏、その才能を寺内に見出されてメンバー入りを果たした。現在は「運命」でリードギターを担当している。
杉田孝弘(ベース)
信田和雄(キーボード)
村松充昭(キーボード)
松森英雄(ドラムス)
岩澤あゆみ(ボーカル、タンバリン)
小学生の時に寺内のステージに感動したのをきっかけに半ば押しかけ同然で寺内に弟子入りし、厳しい練習に耐えて現在は最年少メンバーとして古い曲から最近の曲まで多くのレパートリーをこなし、TBJの音楽の幅を広げることにも一役買っている。
キーボードは一部のコンサートでは村松充昭に代わり猪川史子や二本柳一明が担当することもある。
ほか、音響などの裏方スタッフも含めた全員がブルージーンズである。

過去の主なメンバー [編集]

第1期ブルージーンズ [編集]
1962年、寺内が居た「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」が所属していた東京ハワイアンズが、寺内に新しいバンドを作らせるためにジミー時田が寺内を解雇する形でバンドを辞めさせ、寺内をリーダー、ほりまさゆきをボーカルに当時流行していたロカビリーのバンドを結成させたのが、「寺内タケシとブルージーンズ」であった。

結成時のメンバーは以下の通り。

寺内タケシ(エレキギター)
鈴木八郎(ピアノ)
冬梅邦光(テナーサックス)
堀直昭(ドラムス)
有馬修(ウッドベース)
ほりまさゆき(ボーカル)
その後、事務所との音楽性の違いや事務所の経営悪化を機に渡辺プロダクションに買収される形で移籍、「シャボン玉ホリデー」「ザ・ヒットパレード」に出演し、1963年1月には日劇ウエスタンカーニバルで大ブレイク、しかしそんな矢先に、雇った振り付け師が指導した過激な演奏がたたりメンバーがステージから転落して重傷を負ったり、冬梅が口に大怪我を負ってサックスが吹けなくなるなど事故が相次いでしまった(共演したザ・ピーナッツの2人も捻挫をしたという)。寺内はこれらの事故を機に管楽器無しでメンバーを入れ替え、エレキバンド化を決心、フェンダーから6弦ベースを取り寄せ、ヤマハに自ら大学時代に書いた設計図(この設計図を機に寺内はヤマハに誘われたこともあったという)を持ち込んで日本初の電気ピアノを開発させてしまい、自前のPAやエコーマシーンを用い、加瀬邦彦らを迎えて1964年頃にはついに日本初のエレキバンドが完成した。

この頃のメンバーは以下の通りである。

寺内タケシ(リードギター)
加瀬邦彦(セカンドギター・元ザ・スパイダース)
市山正美(サイドギター)
石橋志郎(ベース)
工藤文雄(ドラムス)
鈴木八郎(キーボード)
エレキバンドとなったブルージーンズは1964年には新宿厚生年金会館で初のコンサートを開いた、なんと前座はベンチャーズとアストロノウツであった。 さらに翌1965年はこの3バンドにザ・スパイダースを加えた4バンドで競演、日本中にエレキブームが巻き起こった。余談だがこの頃、三根信宏をベースに誘うが断られている。 さらにこの年には寺内が「世界三大ギタリスト」に選出されたり、多忙から実現が寺内脱退後までずれ込んでしまったが『エド・サリヴァン・ショー』から出演依頼が来るほどまでになっていたが、スケジュールは完全に飽和状態であった。さらに12月31日の第16回NHK紅白歌合戦には彼らがバック演奏で参加した「遺憾に存じます」を歌った植木等と共に出場した。 また、この頃には日本にリバプールサウンドを広めるためにイギリスから呼ばれたリヴァプール・ファイブの演奏にこのジャンルの可能性をいち早く見出して加瀬が日本初のリバプールサウンド曲「ユア・ベイビー」を作っている。 1966年には来日したザ・ビートルズの前座を務めるが直前に加瀬が脱退、さらに寺内もハードスケジュールがたたり過労で倒れてしまい、療養のためにビートルズ来日を前に脱退することになった。このときは安達勝が参加して急場を凌いだが、それ以降第1次ブルージーンズは、度重なるメンバーチェンジの末に元ロカビリー歌手の田川譲二をリーダーにしたムード歌謡寄りのGSに転身、1969年に第2次ブルージーンズを結成した寺内に「ブルージーンズ」の名を返上するに至った。

ブルー・ジーンズ [編集]
寺内が脱退後も一応ながら活動を続けていたブルージーンズが、「太陽の彼方に」などの代表曲を持つ歌手・田川譲二をリーダー兼ヴォーカルに迎えて、グループ・サウンズとして再出発を図ったもの。その際には自身の事務所「BJプロ」を設立し、レコード会社と破格の契約を行ったという。1967年11月、日本クラウンより「マミー」(B面「愛して」)でデビュー、デビュー盤は両面とも中村八大が作曲した。1968年5月には、第2弾の「ワン・モァ・プリーズ」(B面「星のデイト」)を発売。また、当時クラウンに所属していた双子デュオ、ザ・キューピッツの「夜霧のわかれ道」(1968年2月発売・「もう一度」のB面)の演奏を(管弦と共に)担当した。これらのレコードを出したあとも、メンバーチェンジを行いながら、しばらく活動を続けたという。

レコードデビュー時のメンバーは以下の通り。

田川譲二(リーダー・ヴォーカル)
岡本和雄(リードギター)
西村ヒロシ(オルガン)
朝倉功(ベース)
和田いずみ(サイドギター)
星竜二(ドラムス)

第2次ブルージーンズ [編集]
寺内は療養から復帰後バニーズを結成したが音楽性の違いから結局脱退、そんな1969年、それまで一大ムーブメントを巻き起こしていたグループ・サウンズが崩壊、多くのバンドが解散、ムード歌謡化、R&B・ハードロック化する状況に危機感を抱いた寺内は、エレキの新しい可能性を追求すべく宮間俊之とニューハードなどのビッグバンドと他流試合をこなしたのち、メンバーを集めて新生ブルージーンズの結成に踏み切った。第1次ブルージーンズが未だにその名前を使っていたため商標問題に発展するが、「ブルージーンズ=エレキ=寺内タケシ」の三位一体論を支持する世論に押されてブルージーンズの名前を取り戻し、栄光のブルージーンズ復活が実現した。

第2次ブルージーンズのメンバーは以下の通り。

寺内タケシ(リードギター)
相田幹夫(サイドギター)
石橋志郎(ベース)
ジョー水木(ドラムス)
ルイ高橋(ボーカル、パーカッション)
志村幸夫(リズムギター、1970年より参加)
山根裕(キーボード、1970年より参加)

第3次ブルージーンズ [編集]
1970年になると音楽シーンはフォークソング、ニューミュージック、ムード歌謡が主流となり、数多くあったエレキバンドもブルージーンズ以外はほとんど解散してしまっていた。そんな中孤軍奮闘していた寺内を慕いグループサウンズ時代を担った若者達が集まってきた。そして寺内は1970年10月1日にブルージーンズのメンバーを一新、第3次に突入した。その後もメンバーの入れ替えを繰り返し、寺内以外のメンバーの平均年齢を若く保ちながら現在に至っている。

1970年新結成時のメンバー
寺内タケシ(バンドマスター兼リードギター)
石井イワオ(サイドギター、元フォー・ナイン・エース)
石井薫(リズムギター)
新庄ハジメ(ベース、元ハイソサエティー)
桐生和史(キーボード)
山本進一(ドラム、元東京ベンチャーズ)
深沢ジョー(ボーカル)
1976年のメンバー(この年「夜のヒットスタジオ」出演)
寺内タケシ(リードギター)
宮川周吾(セカンドギター)
石井薫(サードギター)
大森和夫(4thギター)
新庄ハジメ(ベース)
桐生和史(キーボード)
諏佐周二(ドラムス)
井上正(ドラムス、ボーカル)
1981年のメンバー
寺内タケシ(リードギター)
大森和夫(セカンドギター)
石井薫(サードギター)
宇都木裕(4番ギター)
楠本雅祥(ベース)
桐生和史(キーボード)
諏佐周二(ドラムス)

エピソード [編集]
第3次ブルージーンズでは代名詞「津軽じょんがら節」のアレンジを一新した。新しいバージョンでは曲中盤で寺内とベーシストが接近して演奏、そこからベースソロに入るアレンジが注目された。また、この曲以外にも随所で各メンバーのソロを組み込み、メンバー全員にスポットライトが当たる工夫がされている。

1976年、ソ連に住んでいて寺内の大ファンだという白血病に苦しんでいる8歳の少女に生演奏を聴かせるためにブルージーンズのソ連ツアーを決意、ブレジネフ書記長に直訴の手紙を送ったこともあった。最初はソ連大使館から許可が下りなかったがソ連国立コンサート委員会が彼の演奏に惚れ込みツアーが実現、3千万円の赤字と寺内企画の倒産を覚悟で8月、遂にソ連ツアーを決行した。この最中、9月6日にミグ25事件が起こったため、反日感情が高まり寺内の周囲も不穏な空気に包まれた。寺内はマスコミのインタビューにも固く口を閉ざしていたが、遂にエレバン・スタジアムでのコンサートで「私達は、一人の白血病の少女を見舞うため、ここにやって来た。私達は、日本人の代表として、友好を求めるためにやって来た。私達は、みんなを信じ平和を信じます」と語り、高々とVサインを掲げた。すると1万8千人の大観衆だけでなく、警備の軍隊、寺内を追い回していたマスコミまでもが総立ちになってVサインを掲げた。52日間に及んだこのツアーで観客42万人を動員、大成功に終わった。後に1981年(45日間、観客130万人)、1984年(43日間、観客57万人)にもソ連ツアーを行っている。この功績が認められ1981年12月22日には日本国際連合協会から感謝状と国際連合が発行したピースメダル(ちなみに国連平和賞ではない。当時のマスコミが、ピースメダルと国連平和賞を混同して報道したため、誤解される原因となった)、84年には文化功労賞と音楽功労賞をそれぞれ授与された。なお、この年にはブラジル、アルゼンチンでもツアーを行っている。

2005年に国会議事堂でのコンサートを実現、翌2006年には厚生労働省推薦の児童福祉文化財に認定された。

代表曲 [編集]
オリジナル曲

ユア・ベイビー(リバプールサウンド時代到来を予期して加瀬邦彦が作曲したボーカル曲、後に加瀬がザ・ワイルドワンズでカバー)
ブルー・ジーンNo.1(加瀬邦彦作曲のオリジナル)
テリーのテーマ
テストドライバー
涙のギター
空飛ぶギター
フィードバックギター
羅生門
青い渚をぶっとばせ
青春へのメッセージ(ボーカル曲、コンサートのエンディングを飾る一曲)
クラシックのカバー

運命(ベートーベン「交響曲第5番」)
未完成(シューベルト「交響曲第7番」)
熊蜂の飛行(リムスキー=コルサコフ)
ハンガリア舞曲(ブラームス)
ペルシャの市場にて(アルバート・ケテルビー)
剣の舞(アラム・ハチャトゥリアン)
ツィゴイネルワイゼン(サラサーテ)
日本民謡のカバー

津軽じょんがら節(青森県)
ノーエ節(神奈川県)
おけさ節(新潟県)
斉太郎節(宮城県)
ソーラン節(北海道)
その他

キャラバン
パイプライン
ダイヤモンド・ヘッド
エル・クンバン・チェロ
慕情
シバの女王
イン・ザ・ムード
栄光の架橋(ゆずのカバーで、岩澤がボーカルを担当する。ハイスクールコンサートでも非常に人気が高い)

シャンツェ こせん スーフィ フォーミュ 枯葉の輪舞 ペーンイウ ハヤシライ テラー ミズナラ コード ナウル コメン すぎな 全国情報 黒皮かぼち バイオス 黄金魂 フィーン ハング 明日へ ダッカ がんばれ ダッキ ダーティ 首飾り ヌメア オンシー オーオー シンク フライシト ボヨール アングル モサド フローリス カーフス ハラン フラット りーすりん マテリア 八千代 えびす ストーン シイ人気 ゆうすい ジェション 優しい雨 ソフト ブロック アルジェ ウジュン

2009年03月23日

名鉄デキ300形電気機関車

デキ300形は、名古屋鉄道(名鉄)が所有する直流用電気機関車。名鉄三河線・挙母線の前身となる三河鉄道から引き継いだ車両で、3両が現存する。

ドール ワーカー イエロー コヒル ナツメグ トリックス パントリ スプーン パハク ツイン イートイ しゃみ プリズム リンゴ ストロベ チュー オムライス 冒険家 サイメッ チュートリ チョン フェニ キャン ファンブル フィス サザン ビエラ デパー 木綿のハン コイズ ラウンド ジンコール パフス マザー オシレー にっけ ベンチ こかげ チョッキ 日本全国 ユニタ タグカード オプテ ユトレ アドイン フリゲート 極楽トンボ トルリン ワスレナ フェミ

概要 [編集]
三河鉄道が自社線の電化に伴い、1926年(大正15年)に日本車輌で301と302、1927年(昭和2年)?1929年(昭和4年)に三菱造船で303?305が製造された。凸字形で、日本車両製の機関車はウェスティングハウス・エレクトリック製の電飾品を用いていたが、三菱造船製の機関車では純国産品を採用している、当時はキ10形と呼ばれていた。

その後の1936年(昭和11年)には、一畑電気鉄道で1928年(昭和3年)に製造された機関車デキ1形(デキ1号)が世界恐慌に伴う輸送量減で余剰となり、三河鉄道に譲渡されてキ10形・キ16号(名鉄合併後、デキ300形・デキ306号となる。)として編入された。このような経緯から、単にデキ300形といっても各車両の様式は微妙に異なっている。

1941年(昭和16年)に三河鉄道は名鉄に統合され、機関車も名鉄所属となり、形式もデキ300形となった。

なおデキ302は、名鉄モ800形電車2両と共に豊田市の鞍ヶ池公園に貨車と編成を組んで展示されていたが、2003年(平成15年)の公園改修時に解体された。

1964年(昭和39年)にデキ304が須ヶ口駅に併設された新川工場の火災で廃車、1966年(昭和41年)にはデキ301が踏切事故で廃車、1984年(昭和59年)には国鉄ダイヤ改正に伴う名鉄の貨物列車消滅により、余剰となったデキ302が廃車となった。

デキ303、305、306に関しては入替・保線列車・搬入列車などの用途があることから残す事になり、1993年?1994年(平成5?6年)には車体更新工事を受け、塗装がそれまでの黒から明るい青色に変更された。なお更新工事以前より、前面には警戒色である黄色と黒の虎縞模様が塗られていた。

主要諸元 [編集]
全長:10,152mm(303)、10,150mm(305)、10,178mm(306)
全幅:2,678mm(303)、2,630mm(305,306)
全高:4,017mm(303)、4,027mm(305,306)
運転整備重量:30.5t(303,305)、29.8t(306)
電気方式:直流1500V(架空電車線方式)
軸配置:B+B
台車形式:板台枠
主電動機:TDK516-E(60kW)×4基
歯車比:14:70=1:5.00
1時間定格出力:240kW
1時間定格引張力:2868kg
1時間定格速度:29.8km
動力伝達方式:歯車1段減速、吊り掛け式
制御方式:抵抗制御、2段組み合わせ制御
制御装置:電磁空気単位スイッチ式
ブレーキ方式:EL14A空気ブレーキ、手ブレーキ

2009年03月07日

モーガンはヒルスボロでゲイツに合い

モーガンはヒルスボロでゲイツに合い、10月2日、軽装歩兵軍団の指揮を任された。遂に10月13日、モーガンは准将(旅団将軍)に昇進した。

12月3日、モーガンは新しい上官ナサニエル・グリーンにシャーロットで会った。グリーンはモーガンの任務を変えず、彼に新しい命令を与えた。グリーンは彼の軍隊を分割し、劣勢の大陸軍を再構築する時間を稼ぐために、敵のイギリス軍をゲリラ戦術で悩ませることに決めていた。グリーンは、モーガンの任務として、約700名の部隊を率い、直接の戦闘は避け、サウスカロライナの田園地帯で食料の確保と敵への嫌がらせを行うよう指示した。
久兵衛 弁慶国内 ユニット ノール とうもろこし レーズン おっくう ジャル パイダー デザート カメオ 四ツ溝柿 ドヤム ハマー ジグ ブルー フライス デリー トレイル 養老 チロリ パンテ スパイラル ティッカー イール シドニー ハナタ フィッ ノンド キーロガー シャワ バクー国内 プレーヤー ピエタ タリン 白い香 オリーブ ライプ カップル 眠り姫 ネブラ リンス 待ちぼうけ ワースト スマート フリーレ ドックス デッサン ズバー

この戦略が明らかになると、イギリス軍の指揮官チャールズ・コーンウォリス将軍は、バナスター・タールトン大佐の部隊を送ってモーガンを捉えるよう命じた。モーガンはタールトンと戦ったことのある多くの民兵の話を聞き、グリーンの命令に反して直接タールトンと対決することに決めた。

カウペンスの戦い
モーガンは戦場をカウペンスに決めた。1781年1月17日の朝、モーガン隊はカウペンスでタールトンと対峙した。この時の戦闘員の数は拮抗していて、どちらも約1,000名であった。モーガン隊にはアンドルー・ピケンズの民兵と、ウィリアム・ワシントンの竜騎兵が加わっていた。タールトン部隊には正規軍の連隊の中から軽装歩兵の補充を受けていた。

タールトンは動きが速いことと民兵を蔑視する傾向があったので、モーガンはそれを逆手に取って、彼のバージニア狙撃兵の射撃精度と遠距離からの攻撃を利点にする計画を立てた。狙撃兵が最前線に出て、その後ろに民兵、さらに丘の上の正規兵という陣を敷いた。前の2列は敵の脅威が近づいたときに多少の打撃を与えた後にできるだけ速く後ろに引く。これが敵の血気に逸った攻撃を生じさせる、というものだった。

この戦術が奏功した。1時間足らずの間にタールトンの1,076名の部隊のうち、110名が戦死し、830名が捕虜になった。捕虜の中で200名が負傷していた。タールトンは逃げ去ったが、大陸軍はその物資や軍需品をすべて捕獲した。この中には士官の奴隷もいた。カウペンスにおけるモーガンの巧妙な計略は、この独立戦争における戦術の傑作と言われた。

コーンウォリス将軍はタールトンの部隊を失ったばかりでなく、軽装歩兵も失い、この南部方面作戦の残りの期間、対応する速度を限られることになった。モーガンの功績を称え、バージニア地方政府はモーガンに王党派が放棄していた土地と家屋を与えた。南部での戦いの間、湿気と寒さのためにモーガンは坐骨神経痛を患い、常に痛みを感じるようになっていた。2月10日、モーガンはバージニアの農場に帰還した。7月、モーガンは短期間ではあるがラファイエット侯爵の部隊に加わり、もう一度タールトンを今回はバージニアで追ったが成果は得られなかった。

独立戦争の後
モーガンはチャールズ・タウンに戻ると、段々と活動を控えめにしていった。彼は土地を開墾するよりも投資する方に注意を向けた。最終的に250,000エーカー(1,000 km2)の地主となった。身を落ち着けるために、モーガンは長老派教会に入り1782年にはウィンチェスターの近くに新しい家を建てた。彼はその家をサラトガと名付けた。大陸会議はコーペンスでの勝利を記念して1790年に金メダルを贈った。

1794年、モーガンは短期間国軍に呼び戻され、ウィスキー税の反乱を鎮圧する軍隊を指揮した。軍隊の示威行動のみで一発の銃弾を発射することもなく、反乱は収まった。モーガンは連邦党から2度連邦議会議員選挙に出馬した。1794年は落選したが、2回目は当選し1797年から1799年まで議員を務めた。モーガンは1802年の誕生日にサラトガで死んだ。ウィンチェスターのマウント・ヘブロン墓地に埋葬された。

1821年にバージニア州がモーガンの栄誉を称え新しい郡をモーガン郡と命名した。今日ではウエストバージニア州にある。他にもアラバマ州、ジョージア州、イリノイ州、インディアナ州、ケンタッキー州、ミズーリ州、オハイオ州、テネシー州がその例に倣いモーガン郡を作った。

1881年、コーペンスの戦いから100周年を記念して、モーガンの銅像がサウスカロライナ州スパータンバーグの中央広場に建てられ、今日も残っている。

2000年の映画パトリオットでは、主人公ベンジャミン・マーティンの役割の一部はモーガンとその行動から採られている。

逸話
従軍初期に、上官を殴った廉で笞打ち500回の刑を受けたといわれる。

2009年02月19日

スターゲイト アトランティス

『スターゲイト アトランティス』 (Stargate Atlantis) は、アメリカ(撮影はカナダ)で制作され、2004年から放送されているSFテレビドラマ(海外ドラマ)。スターゲイト SG-1」からのスピンオフ作品であり、謎の大陸アトランティスは他の銀河系にある都市型宇宙基地という構想の元、隊員たちの活躍を描く。
とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

2008年8月現在、米国ではシーズン5放送中[1]。日本ではAXNではシーズン3は2008年秋から放送予定。シーズン6の製作がキャンセルされたため、シーズン5が最終シーズンとなる。またシーズン5を追いかける形の時系列で映画の製作が決定した
スターゲイト SG-1シーズン7の終盤で発見されたエンシェントの遺跡より、ゲイトを作った彼らエンシェントの失われた都市がペガサス銀河(NGC 7331)にある事が判明。しかしSG-1が発見した遺跡は南極にあったことから、SGC (StarGate Command)単独での調査は南極条約により事実上不可能であった。そこでIOA(先進国らにより設立された国際監視委員会)主体で、エリザベス・ウィアーを隊長とする探検隊が結成された。

地球が属する天の川銀河から、エンシェントの失われた都市があるペガサス銀河へのゲイト接続には、通常よりも多大なエネルギーを必要とした。これは南極に残存するゼロ・ポイント・モジュール(ZPM)を使用することで解決した。しかし地球からの接続は往路一度きりに限られ、探検隊は帰還の保証がないまま、アトランティスへと旅立った。

いざアトランティスに到着してみると、都市は海底数百メートルに位置しており、都市を水圧から守るフォースシールドのエネルギー源(ZPM)が残りわずかであること、エンシェントは強大な敵に破れてアトランティスを放棄したことがわかった。さらに探検隊の到着によりエネルギー消費量が増大したため、シールドが弱まり、都市への浸水が始まってしまう。地球へ戻ろうにもやはりエネルギーが足りず、ペガサス銀河内でのZPM探索が急務となる。しかしペガサス銀河にはエンシェントを破った敵、レイスが数万年を経てなおも存在しており、人間の生命を糧とし、虐殺を続けているのだった。ZPMを求めて星々を訪れるアトランティス探検隊と、豊かな餌場"地球"へ繋がるアトランティスのゲイトを狙うレイスの戦いが始まる。

エピソードガイド
シーズン1
エリザベス・ウィアー博士がSGCから南極のエンシェント砦(SG-1がアヌビスを撃退する為に使用した)に異動になり、ZPMやドローン(アヌビスの戦艦を撃沈させたオレンジ色の物体)、砦全体についてダニエル・ジャクソンやロドニー・マッケイが調査をしていた。その調査の結果、ダニエルが8番目のシェブロンを発見し、ZPMを使用してSGCからペガサス銀河にダイヤルする事が可能であることが判明した。
ジャック・オニール准将がエンシェント砦の視察に向かう為、マクマード基地でジョン・シェパード少佐の操縦する観測ヘリに乗りエンシェント砦を目指すが、その頃エンシェント砦の玉座ではエンシェントのDNAを持つ医師のカーソン・ベケットがマッケイに協力を強要されていた。渋々、マッケイの手伝いをする為に玉座に座るが、ドローンをオニール達のヘリに向けてしまう。シェパードの操縦で何とかドローンの攻撃を潜り抜け、ベケットが玉座を離れたことにより制御を失ったドローンはオニールにぶつかる寸前で失速して動かなくなった。
手荒い出迎えを受けた2人だったが、無事に最下層の玉座に辿り着く。そこで、オニールがジャクソンとマッケイの回りくどくて難しい説明を受ける間、シェパードは何も触れないようにとだけ言われて待機する事になるのだが、玉座の前で先刻のドローン攻撃の犯人を知り、玉座に興味を持つ。
ベケットの軽い説明を受け勝手に玉座に座ると、玉座が反応してしまう。そして、DNA適合の度合いがオニールに匹敵する力を持っていることが判明し、ウィアーがオニールを説得してチームに引き込む。
そして、ZPMをSGCに持ち込み、ペガサス銀河にダイヤルする。ダイヤルは成功し、行きたがるジャクソンと留めるオニールを尻目に、ウィアーとマーシャル・サムナー大佐(ロバート・パトリック)を筆頭にして失われた都市<アトランティス>に出発する事となる。
ペガサス銀河に遠征隊が無事に到着すると、最後にオニールから送られたドン・ペリニヨンが現れゲイトが閉じる。
シェパード達がアトランティスに来たことに反応して、都市が目覚め始める。しかし、都市内部にあるZ.P.M.の残量が最低値に達してしまい、フェールセーフが働いて海底から浮上を始める。都市が海上に出ると、そこは何一つない大海原で、地球にダイヤルする為のZPMも無い。
そして、新たなZPMを入手する為にゲイトをくぐることになる。
シェパードの特攻で残るハイブシップ(レイス母艦)が一隻になったものの、アトランティス内部にはレイスが多数侵入しており、アトランティス陥落は時間の問題だった。そこへ、死んだはずのシェパードからウィアー達に連絡が入る。SGCからコールドウェル大佐率いるダイダロスが到着したのだった。しかし、ダイダロスはレイスのハイブシップを牽制するのが精一杯だった。そこで、アスガードの転送ビームで核を送りこみ爆破させるというシェパードのアイディアで残る最後のハイブシップを撃沈し、レイス艦隊は退却する。しかし、レイス化したフォード中尉が脱走してしまう。そして、ダイダロスから受領した新たなZPMでアトランティスのシールドを復活させ、新たな戦いが始まる。
レイスとの戦いも激しさを増す中、シェパードらはアスランズと称するエンシェントらしき人々に出会う。しかし、彼らはエンシェントが対レイス用に作り出したナノサイズの機械兵器(ナノナイツ)が人型に進化したレプリケーターだった。エンシェントに恨みをいだくアスランズはアトランティスを破壊しようと襲ってきたためにアスランズとの戦いが始まる。アスランズにアトランティスを一時占拠されるも、シェパードやオニールの活躍によりアトランティスの奪回に成功する。アスランズは地球侵攻に向けて戦艦の建造を始めたため、IOAは新造艦アポロを使用してマーク9(ゲイトバスター)を9発使用した大攻撃を実行する。その直後、惑星ランティアに現れたアスランズの衛星がアトランティスにビーム攻撃を開始する。一旦海底に沈んで難を逃れようとするが、シールドのエネルギー切れも時間の問題となり、スタードライブを使用し、ハイパースペース航行で惑星ランティアから脱出することを決定する。そのためにビームへの盾として小惑星を運びシールドのエネルギー消費を押さえて離陸に成功するが、シールドが再度アトランティスを覆う直前、ビームが小惑星を貫通、アトランティス中央のタワーをかすめ、窓際にいたウィアーが重傷を負い、他のメンバーや施設にも多数の被害が出てしまう。スタードライブを使用して、ハイパースペースに逃げ込んだものの、エネルギー漏れで近くに惑星のない通常空間へ飛び出してしまった。エリザベス・ウィアーは第60話 「First Strike (Part 1)」にて(カーソン・ベケット死亡により空席となっていた)医療主任に若いジェニファー・ケラーを抜擢する。

行方不明になったアトランティスを探しにアポロが捜索を行っていた。その頃、アトランティスはZPMのエネルギーが残り少なくなっており、空気を保っているシールドを居住区画に絞っても長くは保たないことが明らかになった。一方、ウィアーは瀕死の重傷をおっていたが、ナノナイツをマッケイがプログラムし直し利用することで、命をとりとめることに成功した。しかし、細胞の半分以上が失われていた為、半分は人間、半分はレプリケーターという状態になってしまう。マッケイたちはパドルジャンパーにハイパードライブを搭載した試作機を使い、アスランズからZPMを奪おうと考える。半分がレプリケーターであるウィアーがレプリケーターとリンクし、ZPMを奪う作戦は成功したものの作戦中にウィアーを失ってしまう。その結果、アトランティスの新たな司令官としてサマンサ・カーター大佐が送り込まれた。またSG-1が終了したためか地球を舞台にした話がそれまでのシーズンより増えている。

ゲイトの接続事故から、遥か未来に送られてしまったシェパード。アトランティスは干上がった砂漠に埋もれていた。そこに現われるマッケイ。
強烈な砂嵐の中、シェパードは別の時間軸の出来事を知る。そしてマイケルのアジトの所在地、テイラ救出の重要性と残された時間が僅かである事も。
別の時間軸のマッケイの活躍で、無事アトランティスに戻ることが出来たシェパード。急いで部隊を率いアジトに突入するも、タイミングが早すぎ、そこにはまだテイラの姿は無かった。
マッケイはマイケルの情報端末から情報を探ろうと試みる。しかし罠が仕掛けられておりアジトは崩壊、生き埋めになってしまうのだった。
被害を免れた隊員から報告を受けたカーターはダイダロスに応援を求める。自ら現場に赴き救出の指揮をとり、生存者の救出を始める。
しかし、救出作業の途中、マイケルのクルーザーが現れ、シェパードとロノンは取り残されてしまうが、間一髪ダイダロスに転送される。
シーズン5は、アトランティス最後のテレビ作品となる、地球を餌場として侵略に来たレイスを追い、アトランティスを地球に向け飛ばし戦闘に参加する、最後は地球に帰還する事になり地球の海に着水するメインキャストが揃い終了する。
今シーズンもOPが少し変更され、カーターが抜けケラーとウールジーが加わる。

2009年02月03日

伊東(いとう)氏は工藤氏の一支族

伊東(いとう)氏は工藤氏の一支族で、藤原南家為憲流。伊東氏で特に有名なのは、日向国中南部を支配した戦国大名日向伊東氏が居る。
サクソニ ルンバー ソブー ミルク てやり ライフ レビス 待ちぼう マジシャン 青春 オーバ フェー スクリュー ディトム チグリ ファーレ レギュレ レゾナ クホス フェムド オタク サテュロス マキシ るもい ステッチ チヂミ ボート トップ ジャッ 大同情報 ジュラル ストロ カバオ ルビー ブロー キング イラマチオ 月夜の オブシデ ジップ ギモーブ マッチ 幸運快適 つる菜 ラナイ メコン リイシュー スラッシ ローテー だて

伊東氏と日向国の関係は、「曾我兄弟の仇討ち」で知られる工藤祐経の子伊東祐時が、日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まりである。これらはやがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら日向に東国武士の勢力を扶植していった。

伊東氏の本家が実際に日向を支配するようになったのは、1335年足利尊氏から命じられて日向国に下向した伊東祐持からである。祐持は足利尊氏の妻・赤橋登子の所領であった穆佐院を守る為、日向国都於郡300町を賜ったと言われている。祐持は国大将として下向した畠山直顕に属して日向国内の南朝方と戦った。征西府の拡大、観応の擾乱など情勢が変わるたびに国内は混乱したが、伊東氏は基本的に北朝方の立場を守り、幕府に忠節を尽くした。

室町?戦国期を通じて、伊東氏は守護の島津氏と抗争を繰り返しながら次第に版図を広げていった。1461年には伊東祐堯が足利義政から内紛激しい島津氏に代わり守護の職務を代行せよという御教書(偽文書説もある)が下され、続いて御相伴衆に任じられている。 伊東氏十代の伊東義祐は、飫肥の島津豊州家と抗争し、これを圧倒して、佐土原城を本拠に四十八の支城を国内に擁し、位階は歴代最高位たる従三位に昇るなど最盛期を築き上げた。ところが義祐は晩年から、奢侈と中央から取り入れた京風文化に溺れて次第に政務に関心を示さなくなり、1572年、木崎原の戦いで島津義弘に大敗したことを契機に、伊東氏は衰退し始めた。

1577年、島津氏の反攻に耐えられなくなった義祐は日向を追われて、その後は瀬戸内などを流浪した末に堺にて死去したという。こうして伊東氏は一時的に滅亡したが、義祐の三男・伊東祐兵は中央に逃れて羽柴秀吉の家臣となり、1587年の九州征伐で道案内役を務めた功績により、大名として復帰を果たした。

1600年の関ヶ原の戦いでは、祐兵は病の身であったため、家臣を代理として東軍に送っている。その功績により所領を安堵され、以後、伊東氏は江戸時代を通じて飫肥藩として存続することとなった。

なお、伊東氏の一族には、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らが送り出した有名な天正遣欧使節の一員としてローマに赴いて教皇に拝謁した伊東マンショがいる。また、元帥海軍大将伊東祐亨は伊東祐審の嫡流と伝えられる。

一族
伊東祐時
伊東祐光
伊東祐宗
伊東貞祐
伊東祐持
伊東祐煕
伊東氏祐
伊東祐安
伊東祐立
伊東祐堯
伊東祐国
伊東尹祐
伊東祐充
伊東祐吉
伊東義祐
伊東義益
伊東義賢
庶流
伊東祐兵
伊東祐慶
伊東祐松
伊東祐安
佐土原氏
佐土原祐秀
木脇氏
木脇祐守
長倉氏
長倉祐政
長倉祐省

系譜
凡例 太線は実子、細線・二重線は養子

   工藤祐経
    ┃
   伊東祐時
    ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━━━━┓
   田島祐明 長倉祐氏  祐光  門川祐景    木脇祐頼
               ┃            ┃
              祐宗           祐広
              ┣━━━━━━━┓    ┃
             貞祐      祐守  守永祐氏
             ┣━━━┓   ┃  
               祐持  祐藤  祐熙
               ┃  
               氏祐  
              ┃
             祐安
             ┣━━━┓
              祐立 八代祐興
              ┣━━━┳━━━━┓
              祐堯 佐土原祐賀 木脇祐為
              ┣━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
              祐国  祐邑                  祐岑
             ┣━━━━━━━━━━━┳━━━┓       ┃
             尹祐          祐梁  祐武      祐生
          ┏━━━╋━━━┓       ┃   ┣━━━┓   ┃
          祐充  義祐  祐吉      祐松  祐安  祐審  祐青
              ┣━━━━━━━┓   ┃   ┃   ┃   ┃
              義益      祐兵  祐梁  祐氏  祐命  祐益
              ┣━━━┓   ┃   ┃
              義賢  祐勝  祐慶  祐信
                      ┣━━━┓
                      祐久  祐豊
                      ┣━━━┳━━━┓
                      祐由  祐実  祐春
                      ?            
                      祐実           
                      ?
                      祐永
                      ┣━━━┓
                      祐隆  祐之
                      ┃
                      祐福
                      ┃
                      祐鐘
                      ┣━━━┓
                      祐民  祐丕
                      ┃
                      祐相
                      ┃
                      祐帰
戦国期主要家臣団
荒武三省
荒武宗幸
稲津重政
落合兼呑
落合兼朝
落合兼置
河崎祐長
平良伴兼
野村松綱
福永祐友
福永氏本
山田宗昌
柚木崎正家
米良氏
米良重次
米良重直
米良弘泰
米良重方
米良矩重
米良祐次

飫肥藩
土持氏
北原氏
北郷氏
豊州島津氏

2009年01月20日

アレンジを追求したスウィング・ジャズ

ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求める(あるいはスウィング・ジャズに反発する)ミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない[3]。1940年代後半には、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー等が多くの録音を残し、1950年代には、クール・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、ハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。

1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックを丸ごとジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係1960』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』(監督:エドゥアール・モリナロ)に、ケニー・ドーハムが『彼奴を殺せ』(監督:エドゥアール・モリナロ)に参加。1958年には、アメリカ映画『私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンやアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった[4]。

1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンやセシル・テイラー等は、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名からフリー・ジャズという言葉が広まっていった[5]。
バポス ランパン スモーク ワード ねじめ ブルー ケチャ ゴム編み じゃっこ リッチ マリンスノ ラーマー パブコメ フェテ タリア 森の小人 ザイール パパ シエナ ユニット アセビ ムスク フォルタ メンテ ミサンガ ディス ジーンズ ニュート ブラッシ ブロック タイチュー ブルネット フラワー チュート ダブル クーチュ エアリアル スワジ 地平線 セミオート パテント 黒いカバン リンパ バトン 人魚姫 ハンドガン ラスプーチ スイン クラウト ターテー

1960年代前半には、ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み[6]、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を発表、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。

1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギター、ハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、『ビッチェズ・ブリュー』を大ヒットさせる。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成し、後にフュージョンと呼ばれるスタイルに発展していく。